スースダイ、浅野です。

3月29日をもってSuiJohはシェムリアップより一旦完全撤退すると言う決断を致しました。加えて、プノンペンもイオン2より3月22日に撤退を致しました。

嵐のように時が流れたこの3月。

本当はプノンペン3店舗+αのポップアップとシェムリアップ2店舗となり、カンボジア国内で5店舗を目指したのですが、今後は裏路地本店工房とHIMAWARI HOTEL支店での運営となります。

また出直します。
必ず、この夢の続きを、また額田と!!

僕の大好きな写真家 星野道夫さんのエッセイの一文

「人生とは何かを計画している時に起こる別の物語」

そんな出来事が、コロナという(見えない)姿をして襲いかかり、そして僕だけではなく、全世界の多くの業界に、人に、苦難が降り注いでいます。

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コロナで見えたカンボジア人と日本人(あるいは先進国)の捉え方の違い。

※これは僕の勝手な一人の感想です。

僕は3/25~26にシェムリアップへ向かいました。
シェムリアップで定宿として泊まっているホテルがあるのですが、3月末から無期限休業にはいるとのこと。

大型ホテルが軒を連ねる6号線沿いのホテルも、2/3程度が閉鎖あるいは縮小営業されているとのこと。

それに伴い、従業員の解雇が行われているとのことでした。

そして今後、それが加速していくだろうとも言っていました。

それを教えてくれたシェムリアップの日本語ガイドの友人。
そんな彼も3月はツアーガイドの仕事が全てキャンセルとなってしまい、仕事がゼロとのこと。。。

また自分で小さな養鶏農園もやっている彼なのですが、先日6羽が夜中に盗まれたとも言っていました。

そして一緒にアンコールワットへも行ったのですが、ガイドになって約20年、こんなにアンコールワットへ来なかったことは無い!とも言っていました。

町中は閑散とし、12月に私、浅野家族で行ったシェムリアップの姿はそこにはありませんでした。
アンコールワットのチケットセンターもアンコールワットも独占状態。

そしてアンコールワットも、、、

いつも長蛇の列の第三回廊もへ向かう階段も誰もいない…

手が錆だらけになりました。

夜は人が溢れるパブストリートも閑散。

アンジェリナ・ジョリーが通ったとも言われている、いつも観光客で溢れるRED PIANOもお客様は10人程度。。。信じられない。

そんな状況で雇用はどうなるのか。

とあるプノンペンの有名レストランでは天災影響とし、給与を支払わないところもでてきていたりもするようです。

これらの話を聞くと、心痛めますよね。。。

僕もなんともやりきれない感情に襲われました。

それをSuiJohのスタッフや周りのカンボジア人と話していて、ふと思ったのですが、
僕らが一方的にパニックになっているだけなのではないのか、と。

カンボジア人はコロナには怯えていても、
経済的なダメージについては怯えやパニックに陥っていない、

そんな印象が強くなってきています。

解雇や減給に関しても、この状況はどうしようもないよね、と言った風潮が強いように個人的には思います。

<日本人>コロナ⇆経済の危機⇆生命の危機
全てが
綺麗に紐付けされ、全てに恐怖が発生しているようにニュースから見受けられます。

<カンボジア人>コロナ=生命の危機経済の危機
コロナは恐ろしいし
、もちろんかかりたくもないけれど、どうしようも無いじゃん。
成るように成る。

日本のように病院や医者への当たり前の信頼という土台が希薄なカンボジア。
死という存在を日本人のように拒絶的に考えていない、身近に感じている側面があるからなのではないのか、と思います。

カンボジア人と話していて思うのは

生命の危機に恐怖は抱くが、仕事やお金の危機意識レベルに関しては日本人とは違う次元にあるのではないか、と。

カンボジア人の中でもプノンペン生まれ、プノンペン育ちの都会っ子は違う感覚があるようにも思いますが、マジョリティーとも言える地方に田舎があるカンボジア人は実家に帰れば家族がいて、最低限の食べ物もあると言うセーフティネットがあることが大きいのかな、と思います。

これはきっと僕がココに書いた四季がもたらす影響かもしれないなぁとも思ったりします。

四季がある国々、日本や先進国の多くは冬の真っ只中であり、冬=死のリスクが付きまといます。そしてその冬を耐えて忍び、今後を予測して生きてく。

(余談ですがカンボジアで天気予報を気にする人なんて聞いたこともありません)

カンボジアや東南アジアでは、コロナと言うリスクを除けば、気候変動の影響により降雨量の問題等はあれど、お米はたくさん収穫できるし、魚もとれ、季節ごとのフルーツもとれる。

おまけに寒さで凍え死ぬリスクは限りなく低い。
そしてなにより、家族で、親族で(文句を言いながらも)助け合う。

そんな環境下で抱く危機意識と、僕らが抱く危機意識のそもそもの”はじまり”が大きく違うのかな、と思うのです。

どっちが正しくて、間違っているではなくて、やはり国民性やその国のDNAと言うかアイデンティティーがこう言った時にも現れるのかなって思ったのでした。

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